素晴らしき世界で賽を振れ

NEWSと嵐と私。アイドルだって人間だもの。頑張っている人からパワーをもらって生きて行く。

嵐と私 1

記念すべき9月15日にはてなブログを開始しましたが、これまで6年ほど某Aブログ(芸能人がたくさんブログしている)でアラシゴトについてゆるゆると書いてきました。ですが、Aブロで今年に入って書いた記事は何と、1件……。もう今年も半分以上終わっているのに1件。開店休業状態です、ええ。

そんな私も、Aブロ始めた当初は色々書いていたんですが、昔の私のノリ、書いてきた事と、今の私が書きたい事、嵐やNEWSへの感じ方、応援の仕方が6年前とは変わってきたな……と、感じる事がここ一年程強くなってきたので、いろんなブログを見ていく中で「面白い」「文章の書き方が素敵」と感じた方々がはてなブログに多かったため、私もはてなブログに引っ越しを決めました。

ブログを始めるにあたり、つらつらと何故ジャニオタになったのか自分なりに整理しながら書き連ねたいと思います。自分自身のジャニオタ再確認のためにも。

 

 

嵐で言ったら末っ子さん達のイッコ下。

NEWSで言ったら最年長小山氏と同学年。ツンデレプロデューサーでジキル・ハイドで相葉さんとおんなじAB型(←言いたいだけ)

ちなみに御贔屓さんは相葉氏とシゲアキ先生です。どっちも緑、緑が好き。

 

 

ジャニーズジュニア黄金期たる時には、私も小中学生だった為それなりにジャニーズを好きだった。けれど、学校で友人が「小原くんが好き」「剛君が好き」「相葉君が好き」「滝沢君が好き」などと、所謂担当を恥ずかしげもなく声高らかに宣誓している(幼いながらに宣誓することで担当かぶりを防いでいた、と思う)なか、取り立てて担当を決めることなく過ごしてしまった私。けどMyojyoは毎月買っていたし、ほかのドル誌も好みのものがあれば買っていた。初めて何となく好きになったジュニアは高橋ナオキ。でも、まあそんなにキャーキャー言うこともなく…ほかの女子に比べれば全然冷めていたかわいくない小学生だった。

私は長女だったため、どうしても兄や姉がいる友人よりも情報量で劣っていて、知らない単語や見たことのない番組も多く、それがちょっとコンプレックスだった。みんなが「8時だJ」の話をしていても、「なんのこっちゃ」「でも話合わせなきゃ」という感じだった。

そんな私にも、何となくではなく、しっかりと「好き」になった初めてのアイドルがいる。それが、かの有名なナデ肩ヒーロー櫻井翔。嵐としてデビューしたときのあのテンガロンハット、うねうねウェーブの髪型、ピアス(してたよね?)すべてが衝撃。まじ衝撃。「私とそんなに歳離れてませんよね?」「東京はこんなにイケイケな男子がいるんか?」「やだかっこいい」「好き」しまいには、「あたしも慶応行く」そんな夢を見ていた。何とも浅はか。

バレーボールの番組も見て、捨てずに保管していたMyojyoを読み直し、デビュー前の翔さんの記事を見つけては喜んでいた中学生時代。まだファミリークラブにも入る勇気も知識もなく、翔さんへの思いは風化。高校進学と共にジャニーズへの興味も薄れゆき高校を卒業。

でも、私の生活の中で、ちょいちょい翔さんは忘れた頃に顔を出す。東京の大学に進学し、大学沿線の電車に乗り新宿駅のホームに降りて、一番に目に飛び込んできたのは予備校の宣伝をしている翔さんの大きな(田舎では見ないくらい大きな)ポスターで、それを見て「ああ、私も東京に住むんだな」って思った事を今でも鮮明に覚えている。慶応じゃなかったけど、私にとってのモラトリアムな青春の日々の始まりは翔さんが告げてくれた様に思う。大学では友人に「嵐のコンサート一緒に行かない?」と誘ってもらうも「ペンライトふれないし、うちわ恥ずかしいし、踊れないし、フーフー!とか声出せないから行かない、ごめんね」と断ってしまう。もったいない!もったいなさすぎる!!今思えば、だけど。大学時代、偶然にも近くで翔さんの御尊顔を拝んだ事もある。帽子を深めにかぶり、ダメージ加工されたニットを羽織った翔さんは紛れもなく芸能人だった。その後、あの有名なダブルパーカーをやっちゃうような人とは思えないくらい芸能人だった。

 

こんなにも翔さん翔さん言ってますが、私は嵐では相葉担。

嵐にはまり、相葉担になった話は次回に続く。